肥後在来種「穂増」
わずか四十粒から現代に甦る

熊本県菊池川流域には、二千年にわたり脈々と続けられてきた米作りによる大地の記憶が刻まれている。江戸時代にはついに肥後米が「天下第一の米」と高い評価をうけることになった。その肥後米こそが「穂増」である。以来熊本は肥後米の中心産地として発展していった。
その後時代の流れに取り残され、作る農家もいなくなった。しかし近年、菊池川流域の農家達の取組により、わずかに残された穂増の種籾から長い年月を経て復活を遂げた。

      

穂増は熊本をはじめ
九州一円で栽培される

一八三三年(天保四年)現在の熊本県八代市の現在の高田駅数編の旧高田村で、一人の女性農家によって行われた種取りからはじまった。その後九州一円で栽培されるようになり︑江戸 時代末期︑日本の米相場を左右するというまで 言われた肥後米の主流となった︒

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世界初の先物市場堂島米会所にて
「天下第一の米」の評価

古代から脈々と続けられてきた肥後米の米作りは、江戸時代堂島米会所において、穂増をもって「天下第一の米」と高い評価をうけて以来の熊本は肥後米の中心産地として発展していった。将軍の御供米(神仏に捧げるお米)には肥後米が用いられ、大坂では千両役者や横綱へのお祝い米とし「肥後米進上」という立札をつけて贈られていた。市場でひろく流通していた有名な米だったが、平民の間でも寿司米として大切に扱われ「肥後米に匹敵する米はない」と言われるほど高い評価を受けていた。その後「西の肥後米、東の加賀米」と称されるようになり肥後米は、日本の米相場を左右するほど多くの人々に食べられるようになった。

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幻の米「穂増」の復活
熊本の農家の取組み

日本の米相場を左右するほど流通していた穂増でしたが、稲が倒れる倒伏や稲穂から種籾が落ちる脱粒が起きやすいため、明治以降は育てやすく多収量の新品種に取って代わられ、やがて栽培農家がいなくなった。戦後日本の食事情は大きく変り、一九七〇年代になると甘味と粘りを特徴とするコシヒカリが主流となり、穂増は「幻の米」となった。

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幻の米「穂増」の復活
熊本ならではの米づくり

日本の稲作三五〇〇年の歴史の中、戦後から現在をのぞくと、元来食味はあっさりとした米が日常の主食とされてきた。戦後、食文化も多様化が進み、誰でも色々な食べ物を食べられるようになった。
しかし「コシヒカリ系の品種一辺倒でなく熊本ならではの味や香りがする米も作ろう」と熊本県内の農家の取組みにより「幻の米」を復活させるための活動を開始された。
二〇一七年に茨城県つくば市の研究機関、農研機構遺伝資源センターの「農業生物資源ジーンバンク」に保存されていた種モミ四〇粒を取り寄せ、二畳分ほどの田で初めて栽培が開始された。収穫した種籾約二十キロを農家十軒と三〇〇人余りの協力者に配布し、農家は田で、協力者はバケツで育てた。
この活動が実を結び、農家が恒常的に栽培を続けられるようになり、収穫分から一般消費者向けに販売できるだけの量の種籾を確保できるようになった。

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